REWORK

新しい働き方 / 営み方を実践するメディア

アートから制度づくりまで、インスタレーションに挑み続ける。ライゾマティクス・アーキテクチャー 齋藤精一×馬場正尊

三菱地所による有楽町エリアの再構築プロジェクト「Micro STARs Dev.(以降:micro)」。建築、編集、メディアアートなど、様々なジャンルの外部プロデューサーとコラボレーションしながら、まだ価値の定まりきらない(=micro な)人・アイディア・コト・モノ同士が交わり、次の時代を担うベンチャーが生まれる仕組みを有楽町からつくり上げていくプロジェクトです。

その舞台として、2020年2月には「有楽町『SAAI Wonder Working Community』(以降:SAAI)」が誕生。ワークスペースにはとどまらない「ワーキングコミュニティ」として、多様な価値観を持った人が集いアイディアをカタチにするための会員制施設です。

新有楽町ビル10階の会員制ワーキングコミュニティ「SAAI」 画像提供:三菱地所株式会社

プロデューサーの一員である馬場正尊が、「ルーツ オブ クリエーション」をテーマに、microのプロデューサーのみなさんを訪ねていくインタビューシリーズをお送りします(アーカイブはこちら)。

4回目のゲストは、ライゾマティクス・アーキテクチャー主宰の齋藤精一さん。株式会社ライゾマティクスといえば、デザイン、アート、数学、工学、音楽など、様々なバックグラウンドを持つクリエイティブ集団であり、2016年には研究開発とメディアアートの「Research」、建築と都市の「Architecture」、広告とデザイン戦略の「Design」の3つの部門を立ち上げ、既成概念を超えた新たなクリエイションやコラボレーションを生み出し続けています。

建築デザイン出身者である齋藤さんは、デザインやアート、テクノロジーを駆使しながら建築や都市とクロスし、いまや守備範囲は国の制度や政策などの仕組みづくりにまで及んでいます。そこに一貫しているのは、シンプルに純粋に、ただ見たい風景を追い求めていく姿。時をかけてバージョンアップしていく、齋藤さんが手がけるインスタレーションの背景に迫りました。

齋藤精一 さん プロフィール

1975年神奈川生まれ。建築デザインをコロンビア大学建築学科(MSAAD)で学び、2000年からNYで活動を開始。その後ArnellGroupにてクリエイティブ職に携わり、2003年の越後妻有アートトリエンナーレでアーティストに選出されたのをきっかけに帰国。フリーランスのクリエイターとして活躍後、2006年株式会社ライゾマティクス設立、2016年よりRhizomatiks Architectureを主宰。建築で培ったロジカルな思考を基に、アート・コマーシャルの領域で立体・インタラクティブの作品を多数作り続けている。現在、2020年グッドデザイン賞審査委員副委員長、2020年ドバイ万博 日本館クリエイティブ・アドバイザー。2025年大阪・関西万博People’s Living Lab促進会議有識者。

https://architecture.rhizomatiks.com

“リスクヘッジ”で建築の道へ

馬場 「ルーツ・オブ・クリエーション」をテーマに、SAAIに関わるプロデューサーのみなさんにインタビューしています。齋藤さんがそもそもなぜこの仕事をやっているのか、幼少期からどうやって今ここにたどり着いたのか、今日はじっくり聞かせてください。

齋藤 僕は神奈川県伊勢原市の出身で、ザリガニをとって遊んでいた普通の子どもでした。ルーツといえば、親父がバイクをいじって乗っているのを見て「かっこいいなあ」と思っていたことですね。モノをつくるのが好きで、リモコンをどうやって分解できるのか考えたり、ミニカーをニッパーで切ってオープンカーにしたり、ダイヤブロックにハマったり、いろんなものをつくって遊んでいました。

高校に入ってからはバスケ部で関東大会に行きながらも、一方で雑誌カルチャーに入っていき、『ホット・ドック』とか『ポパイ』を通って『スタジオ・ボイス』とか読んでいたんですよ。

馬場 高校生で『スタジオ・ボイス』とはさすが早いな。

齋藤 大学ではデザインがやりたいと思って、リスクヘッジとして将来融通がききそうな理系に進もうと考えました。デザインができる理系ということで選んだのが建築学科。一浪して東京理科大学の工学部・建築学科に進みました。大学は神楽坂にあって、遊ぶところがいっぱいあったから、バイトしながらクラブにも行ったりしている中で、真鍋(大度)と出会いました。

馬場 大学の時に出会っていたんだ。

齋藤 学食でカラコンを入れている真鍋を見かけていて、なんか気になるなぁと思っていて、気づいたら一緒に遊ぶようになっていました。彼はバリバリのDJで、中目黒の「モンタージュ」というクラブで自分たちでイベントをやったりしていました。そのときに一緒に遊んでいたのが、千葉(秀憲)をはじめ、弊社のの総務スタッフとか税理士さんとかでした。

馬場   学生時代の遊び仲間でライゾマが固められているんですね。

齋藤 学部時代はシュルレアリスムとかに憧れがあったり、建築マップで有名建築を見て回ったりして少しずついろんな知識を付け焼き刃で得ていくわけですが、なかには優等生たちが授業以外でもエスキス(下絵・ラフスケッチ)していたりして、そういうのが苦手だったんですよね。「すかしてるな〜」とか思って横目に見ていました(笑)。

馬場 わかるわかる(笑)

齋藤 卒制では空中都市をつくったんですよ。上空5kmのギリギリ酸素で自立できる都市ビジョン。人間を空中都市に住まわせてそれが世界を周り、地球を自生させてきれいにする。それを説明するために漫画家志望の友達に頼んで漫画を書いてもらい、バスケ部の後輩の力を借りて色鉛筆を切って積み上げて、6メートルくらいの大きな模型をつくりました。

そんな感じで明後日の方向に歩き出してしまったものですから、先生たちにも心配されたし、「毎日・DAS学生デザイン賞」に選ばれたときは、「これは企画だ、建築じゃない」とか言われたりもしましたね。

学部の次はどうするか。親は大学院に行かせてくれると言うけど、成績が悪すぎて理科大の院には行けず、その時から少し海外を見ていたんですよね。テレホーダイが始まった頃で、アップルのPowerPCを買ってネットでいろいろ調べていた。留学するならTOEFLをとらなきゃいけないので、その勉強は3年生の頃から少しづつ始めていて。

SCI-Arc(南カルフォルニア建築大学)やコロンビア、ハーバード、ファッションで有名なFIT(ファッション工科大学)とかいくつか絞って受けて、そしたら全部受かったんですよ。

馬場 それはすごい。

齋藤 理由はポートフォリオです。卒制や建築のプロジェクトのほか、グラフティーのフリーマガジンの編集を手伝っていたことやクラブでDJやイベントをやっていたことも全部一緒にポートフォリオに入れたら「おもしろそうだから」と選んでもらえたみたいで、最終的にはコロンビアに決めました。

コロンビアでは都市理論を学んでいたのですが、とにかく濃厚でしたね。ちょうど建築家のベルナール・チュミが学部長を辞める直前の頃でした。ラ・ヴィレット公園やチュミ自らが編集している本『イベント・シティ』とか、脱構築主義とか、とにかくチュミにすごく憧れていましたから。

建築家のニール・ディナーリや建築家集団アーキグラムにも強く影響を受けたという。

齋藤 その頃からコロンビアはCGがバリバリで、研究室には普通じゃ買えないようなアプリやPCや機材が並んでいました。3Dプリンターやレーザーカッターもあって、だからもう使い倒してやろうと思って。だけどいかんせん英語がわかんなくて、Maya(3D/CGソフトウェア)が使えたので、アメリカ人にパソコンを教える代わりに、授業のフォローをやってもらっていた。そんなことをしていたら、だんだんCG王子みたいになって(笑)。

馬場 そのあたりからいまの齋藤さん像が見えてくるんだな。

齋藤 当時は『トロン: レガシー』のジョセフ・コシンスキー監督がTAとして3Dソフトウェアを教えていたんですよね。建築家のグレッグ・リンやFOAのファシッド・ムサヴィとか、そういう人たちがうろうろしていました。いやぁ、本当に濃厚でしたね。

その後、オランダ人建築家の事務所に就職したら、9.11が起きるんです。当時は家の近くにもいろんなものが飛んできて、変なにおいが漂っていたり、友達の家族が亡くなったり、まちには悲しみが広がっていました。そんな中で9.11ニュープロポーザルというような展覧会が企画されて、建築界隈では「次に誰が新しいものを建てるか」みたいな話になっていた。僕は映像やCGをつくるのが得意だったので、展覧会用のインスタレーションをつくるように上司から言われたのですが、とてもそんな気持ちになれなくて。建築業界のエゴに嫌気がさして、辞めることにしました。

ライゾマティクス 中目黒オフィスにて。ライゾマティクスという社名は、「リゾーム(地下茎)」から名 付けられている。

齋藤 一方その頃、真鍋は就職してSEをやっていたんですよ。オンラインでよく会話していて、「会社なんて辞めて音楽やったらどう?」とか話していたら、会社を辞めてニューヨークに2か月くらい来たりして。その間けっこう僕の家にいたんですよね。その頃、坂本龍一さんの音楽論の本を読んで影響されたりして「ちょっとユニット始めてみようぜ」と生まれたのがライゾマティクスです。2001年ごろかな。

馬場 もともとライゾマはニューヨークで誕生したんですね。

齋藤 といいつつ仕事は別にしていて、建築を辞めてからは広告代理店に入って、CGで広告やCMをつくっていました。結局ニューヨークには2005年くらいまで住んでいて、最後の2年間は東京と行ったり来たりしていましたね。

というのも、実は2003年に2回目の越後妻有アートトリエンナーレに出ているんです。WhiteBaseという作家名で、アーティストの平野治朗さんと組んで、白い風船を自然のなかに散りばめた作品をつくりました。その頃から、CET(セントラル・イースト・トーキョーの略。東京の東側で実験的に行われたデザイン・建築・アートのイベント)にも関わらせてもらっていたんですよ。

馬場 そうなんだ!その頃から僕ら近いところにいたんだね。

齋藤 アートにも関わっていく中で、もっと食えるアートができないのかなと考え始めました。一度アートの世界に入ってしまうと、やっぱり自分がつくりたい物がつくりたいと思う。だけど、一方では稼ぎたいという思いもあるし。両方一緒にできないかと仲間で話していたら、そういえば数年前にライゾマティクスってつくったよな、と思い出した。

当時、僕はアーティスト集団のダムタイプにがっつり影響を受けたりしていて、真鍋もIAMAS(国際情報科学芸術アカデミー)を卒業した後は、今パートナーで一緒にやっている石橋(素)たちと一緒にデザインやメディアアートの案件をやりはじめていた。日本でもメディアアートがコマーシャルにつなげていける道筋が見え始めていたので、改めてライゾマティクスをつくろう!となったんです。

スチール製のOAフロアがむき出しのメタリックなオフィス。

馬場 真鍋さんたちと再び組んで、ライゾマが本格始動していったんですね。

齋藤 もう出会ってから20年以上になりますね。僕は一度仲良くなると付き合いが長くなるタイプなんですよ。結局、仲間たちとつるむのが好きなんですよね。

ライゾマティクスを設立したのが2006年。その頃はウェブバブルの全盛期でウェブサイトばかりつくっていて、最初はそれが食いぶちになっていました。インスタレーションはあくまで趣味的に自分たちで設営まですることが多かったんです。やっぱりモノをつくっていることが僕的にはすごく大事で、事務所にはいつでも大きな道具箱がありました。

 

建築と再びクロスする

馬場 その後のライゾマティクスの活躍は言うまでもないのですが、その中でなにか節目に感じたことはありましたか?

齋藤 僕は9.11以降、建築と一度距離を置いているわけじゃないですか。でもライゾマティクスが10周年になった2016年あたりからプロジェクションマッピングが話題になり、また建築と関わるようになってきたんですよ。

馬場 そうかあ、なるほど。また建築との接点が出てきたんだ。

齋藤 その頃からモーターショーのブースにメディアアートを入れたいとか、建築家がクライアントになることも増えてきました。ゼネコンやデベロッパーからもインタラクションを提案に使いたいなど、オファーをもらうようになったんですよね。

馬場 日本も風景を映像でつくり始めたからだよね。

齋藤 そうするとだんだんと自分の中で建築出身根性が出てきて、それを確かめるために、2013年に表参道のGYREで『建築家にならなかった建築家たち展』を企画したんです。デザイナーの中村勇吾さんをはじめ、建築を勉強したけど建築をやらなくなった方々にいま何をやっているのか聞いていくと、みんな少なからず建築に未練が残っているんですよね。それに影響されたのか、自分の仕事やプロジェクトでもっと建築やまちを使う方向に意識が転換していきました。

齋藤 僕は何か問題があると、その根源を突き詰めたくなるんです。今も実はその問題の根源を突き詰めるジャーニーの中にいる。なにかというと、例えばインタラクティブアートの案件を担当して、イベントをやることになった。海外では公道をうまく使ってイベントをやっている。日本では、安全性とか周辺環境を配慮しても無理だと言われる。で、ゲリラでやったらもちろん怒られる。

2015年に六本木アートナイトに関わらせてもらったときも、警察との交渉を知恵の輪を解くようにいろいろ思案しました。そのうちに、まちのルールみたいなものにどんどん興味がわくようになってきたんですよね。

 

仕組みやルールからクリエーションの基盤を整える

馬場 なるほど。流れがだんだん見えてきた。最近では領域がだいぶ変わっている印象ですもんね。

齋藤 領域は広くなりましたね。建築から辿っていき、まちとかルールに行きついて、都市開発の分野ではディベロッパーやインフラの会社さんと仕事をすることが多いです。

例えば『202X URBAN VISIONARY』という大手デベロッパーが集合するイベントでは、すごく希有なポジションにいさせていただいていて、都市の未来について提案させてもらう機会があります。業界内ではNDA(秘密保持契約)があるので企業間では見えないことが、はたから見ていると、各社のフォーマットの違いとか共通性が見えてくる。そうすると問題を解決するため、もしくはより良くするためにはコンソーシアムなのか、国にワーキンググループをつくってもらった方のがいいのか、という手段も見えてくるんです。

行政の案件をしている今でもモノを触りたい欲求は止まらず、家ではバイクを触ったり、大工仕事をやっているという。

齋藤 この数年では、行政の仕事を手がける機会も多くなりました。国が開く有識者会議や検討会の委員としても声をかけていただくのですが、嫌われたら元のウェブ制作に戻れば何とかなるだろうと思っているので、どこに行っても正直に発言するんです。ワーキンググループで意見が求められると、「なんでこんなことをやっているの?」と、忖度や既得権益も関係なく平気で言ってしまう。僕は行政的には専門外なので、目がきれいすぎるということもあるかもしれませんね。

貧乏根性のせいか「同じお金を使うのだったらいいもの、ニーズに合ったものをつくろうよ」ということを基本的にずっとやっている感じなんです。「こうあるべきだ」と見えた瞬間に、それをやるためにどうすればいいかを考える。代理店をどかした方がいいときは一年かけてでもそうするし、法律や条例を変えた方がいい場合は、かけ合ってやる。そのケーススタディをつくりたいんです。特措法や規制緩和など、馬場さんのやられていることをいつも参考にさせてもらっているんですよ。僕も馬場さんも、建築の中では特殊な立ち位置ですよね。

馬場 たしかに齋藤さんとは共通点を感じるんだよな。学部のときはいわゆる“エスキスの奴ら”じゃないところにいて、広告代理店に行ったところも同じ。ちょっと斜にかまえて建築業界を見ていたりして。建築やまちを突き詰めていくと、根源の疑問みたいなものに突き当たって、いまや国レベルの委員をしている。

齋藤さんって委員会の中でもかなり説得力のあるポジションにいるんじゃないですか?ちゃんと現場にいるから的確だし、学者の先生たちとは違う目線で、経験を盾にいろいろ言えるから。社会性やバランス感覚があって、エゴが薄いし、社会全体のためにはなにがいいのか、すごく素直に考えているんじゃないかな。

齋藤 間違っているときははっきりと言うので、それを面倒くさいと思っている人もいると思いますけどね。だけど、がっつかないというか、求められているところに行きたいと思っています。

丸の内仲通り沿いの有楽町ビル1階にあるmicroプロジェクトの拠点「micro FOOD & IDEA MARKET」にて、齋藤さんがプロデュースを手掛けた、オープニングインスタレーション「Relationship Builder ver.01」

馬場 齋藤さんは昔からインスタレーションをやっていた。インスタレーションがデカくなればなるほど、たくさんの人を動かさないといけないし、警察や偉い人の許可をとらないといけない。いま齋藤さんがやっていることって、都市規模でインスタレーションやっている感覚ですよね。

齋藤 そうそう、そうです。

馬場 国の制度づくりや府や省庁とのコミュニケーションも、インスタレーションをやっていた感覚から地続きに成長していて、基本的な思考は変わっていないんだろうな。見たことない風景をつくるためには、トリエンナーレの風船アートもでかい都市プロジェクトも、原動力はまったく一緒なんだよね。

齋藤 そうですね。空論で何かを変えよう、考えようではなくて、なにか目標や目的があって、そのために変えたいという。足元から雑草を刈っていくイメージです。

馬場 建築はアートでなければならない、政治や経済に絡むことがタブーな空気があった。だけど最近はそれが少し変わってきていると感じる。誰かが決めたルールの中で建築が動いてきたから、そのルールを変えようと建築もバランスをとり始めた。素直に必要なことをやり始めている感覚ですよね。

齋藤 いろんなものを創造したいのならば、制度設計とデザインと両方、社会的なバランスがとれる状況をつくらなければならない。…と、これはまだだいぶ時間がかかりそうですね(笑)。

馬場 いやぁ、おもしろかった。順を追って聞いていろんなことが分かってきた。ぜひSAAIでこの続きをやりましょう!今日はありがとうございました。

 

有楽町micro プロジェクト・インタビューシリーズ
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